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どこまでも

どこまでも_a0028049_1052828.jpgきのうは祝日返上で来てくれたたくさんの友だちの助けによって、2トントラックいっぱいいっぱいで3往復してもらって、おおかたの大きなモノを運びました。わたしは残って、とにかく運び出せるかたちに荷物のまとめ。かぎりなく出るゴミの袋の山。またたく間にいっぱいになっていく新居。どんなに吟味して手に入れたものでも、いつかいらなくなる時が来る。ゴミをまったく出さない生活は、いまの日本ではありえないのかもしれない。でもテレビで見た、ゴミの中からゴミにもならないようなものを拾い集めて家族の生活を支えている、スモーキーマウンテンの子どもたちのことを考えたら、わたしたちのゴミは宝の山。自分の生活をイエスさまはどう思っておられるのだろうなあ、罪深いなあとつくづく思います。この気持ちを忘れてはならん。暑い一日だったので、水分をガ〜ブガブ飲んだそばから汗になって、日中トイレに1回しか行きませんでした。

同窓会、とても楽しかったです。わたしはいろいろなところで、よく「老けた(老けている)」と言われますが、その度に悲しんだり怒ったりしてしまうのです。同窓会って、たぶんみんな多かれ少なかれ、むかしを知るお互いが、いまの姿にどんな感想を持つか、自分でもわかっていることを(でも人はそう思わないでくれたらうれしいなということを)つきつけられるのではないかという不安があるんじゃないかと思います。くだらないようでも、わたしにとってはそこが痛いところでした。でも、ともに同じような体験をしてきた人たちが再び集められたとき、あの1年があったからいまのわたしたちがあるんだねと、会わなかった20年がそれぞれにまったくちがうものでも、いつも一緒に歩いてきたことをみんなが実感して、うれしく感じたようでした。わたしもみんなも、再会によって励まされたという感想を述べていました。

神さまがわたしたちを、外なる人が年衰えていくように造られたのだから、そこにはかならずすばらしい計画があるはず。同時に神さまは、わたしたちの内なる人を日々新しくしてくださる。内なる人が毎日生まれ変わって、生き生きといのちを生きていくことができたら、わたしたちの外なる人も、ますます美しく壮健にしていただけるのではないだろうか。わたしはみんなで「すてきね」と言い合いながら、年をとっていきたい。今度老けたと言われたら、神さまがたくさんのことをなさせてくださったのだと、にっこりできますように。それで一喜一憂していたら、自分で自分をつまらなくしてしまうだけだから。内なる人が新しくされることをまず求めて、1年後の自分、10年後の自分がどうありたいかを思い描こう。神さまは希望であり、いのちなのだから。
by les-copain | 2005-07-19 10:53 | ■ケータイ写真館


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